還 気死から回復したがまず感じたのは、幼い頃からよく知る揺れだった。 元来極楽浄土や冥府といった宗教絡みのものは信じない彼女であるから、 すぐに空気の淀みと潮の香の薄さから甲板ではなく船内の一室だと理解した。 続いて沸き上がったのはげんなりというにふさわしい感情だった。 敵の親玉である自分を殺さず、ましてや再び回収する西海の鬼の思考は理解しがたい。 いや、思い当たるものはある。だが自分の理解の外のものだ。 寝返りを打つと、猪口を傾ける西海の鬼がいた。 思わず息を呑んで起き上がると、手の自由が効かないことに気付いた。 手枷が填められている。鎖の先は寝床の四本あるうちの脚の一つに繋がっている。 こんな屈辱あり得ない。だがはずそうと無駄な労力は割かなかった。 ただ眉間に皺を寄せ、不快感を露にした。 「安心しろ。別にどうにかしようってわけじゃねぇよ」 信じられるかそんなもの。 偽善に満ちた笑顔を振りまくと、鬼は徳利から酒を注ぎ、に濁酒の満ちた猪口を差し出した。 彼女は無言で首を振る。 この状況で飲むほうがおかしい。 何を考えているこの男は。 「なんで『あたしたち』なんつってたんだ?」 残念そうに酒を飲み干したやつはそう言った。 「は?」 「この前の話だよ」 この前の話?あのときまで話したことはないから、きっと戦ったときの話だ。 ゆっくりと思い出してみる。 詳細は覚えていないが、確かに話した記憶がある。 天井の隅を睨みながら記憶を掘り返す。 やはり細かいところは思い出せない。思い出す気もない。ただ全容は分かった。 「あんたには関係ない」 しくじったと思えばそれまでだ。 何せ戦ったやつが生きているなんて体験が初めてなのだから、どちらかと言うと死人と話している気分だった。 彼女は戦う相手に対して深く考えずに話しかける女だ。 それで傷つこうが、喜ぼうが一向に構わない。どうせ死ぬのだから。 だから初めて何か迂闊を口にしたらしいことを後悔した。 最も彼女は後悔という感情を知らなかったが。 「なあ。お前」 「寝る」 「はあ!?ちょっと待て」 その先を聞くことなく再び柔らかな寝床に身を横たえる。 今更ながら自分は異国船を乗っ取ったのだと思いだし、寝心地の悪い綿詰めした敷き布に苛立った。 次に目が覚めれば自分の身の振り方は決まる。 だったらぼんくらと話すよりも、よっぽど惰眠を貪ったほうがましというもの。 まだ何か言っている西海の鬼を背に、痛む腹を抱えて目を閉じた。 「本当に寝たのか・・・?」 目の前で手を振っても応答なし。微かな寝息も聞こえてくる。 それにほっとした。死んだかもしれないという疑惑が浮上しつつあったので、息をしていることに安堵した。 しかし殺されたかけた敵が目の前にいるにも関わらず堂々と寝れるこいつはすごいと思う。 見くびられているのか、無神経なのかどちらかは知らないが。 外へと続く階段からは自分の手下たちの声しかしない。 の軍もその多くが生き残ったが大体は牢に入っていて、収まりきらなかった数少ない残りも抵抗することがない。 血霞が率いた軍とは思えないおとなしさだった。 力尽くで押さえつけていたわけではないらしい。自分のような扱いをしていたわけでもないらしい。 抑圧から解放されれば何かしらの行動を起こすと思っていたのだが、ただ脱力した風になっているだけだった。 だが前を通られれば虚ろな眼で睨む気力はあるらしかった。 の腹には未だ痛々しく包帯が巻かれている。 しかし医者は山を越えたからもう心配ないと言っていた。 自分のとは違って絹糸のようにさらさらした髪を掻き上げてやる。 艶やかな唇に、ただ白いだけではない色を持った肌。鼻筋は通っていて、睫毛は影を作るほど長い。 一見すれば血を好む霞とは思えない美しさだ。 「アニキ」 床板の軋む音がして、指を唇に当てた。 幸いなことにが起きる様子はない。 様子を聞かれ、異国の風変わりな寝床を覗き込み、その寝息を示すと彼は呆れてため息をついた。 「アニキが生かしてくれてるってのに、呑気な女ですね。 ったく自分の立場分かってんのか?」 憎々しげな顔で文句を言う彼の気持ちは痛いほど分かる。 が寝返りを打つと、あからさまに怯んだ。 小さく喉で笑う。 「縛られてんだから、食われる心配はねぇよ」 「わ、分かってるけどよ! ・・・アニキ、これからこいつはどうします?」 「・・・そうだな」 そろそろ決めなくては、さすがに手下たちに示しがつかない。 だからといって今さら殺す気にもなれない。 長い沈黙が場を包み、は布のほつれを睨んだ。 跋 花火大会終了直後に書き終わり