漂
あたしは死んだのだろうか。暑さ、寒さ、痛みさえも感じない。
地獄というものに堕ちたか。いや、そんなことはない。あたしなんかはどこも受け入れてくれない。
笑い声を上げようと思ったのに、喉は奇妙な音しか出してくれなかった。
代わりに頬を伝うものに触れてみると、それは透き通った液体だった。
こんなものはとうの昔に枯れ果てたとばかり。
それは絶え間なけ溢れ続け、小さな水溜まりを作った。
水鏡にはもちろん自分の姿が映る。
だが今の姿とは違った。
華やかな着物。誰かが称賛した顔。
右手には肉切り包丁。包丁は元の鉄が見えないほど血がこびりついて、見る者が見ればもう切れ味など存在しないと分かる。
彼女は泣いていた。大声を上げて泣いていた。
傷が痛いのか。死ぬのが怖いのか。もう太陽も海も見れないことが悲しいのか。
最後以外には分からない感情だ。傷が痛くて泣く?死ぬのが怖い?
ただ悪寒を感じて水溜まりを踏みつけた。
こんな弱い自分は信じられなかった。
荒々しく、乱暴に。水が跳ねて衣服に飛び散る。
だがは気付かなかった。服の染みが赤黒いことに。
水面の少女の流す涙の色が変わったことに。
波音に混じった床板の軋む音に顔を歪めた。
いつもならが寝ていると気をつかって忍ばせる足音が全く止まない。
おかげで眠れやしない。
どれもこれも西海の鬼のせいだ。
いつもなら物音を立てたやつから殺しに行くのに、今は武器を取られ拘束されて動くことすらままならない。
ウトウトしたかと思えば気配を感じて飛び起きる。
するとあの鬼がいたような形跡が残っているのだから質が悪い。
出される食事も得体のしれないものばかり。
茶色っぽい液体に白い物体と若布が浮いていて、それに焼いた魚とよく部下たちが食べている米とかいうものが椀に一杯。
ここ一週間くらいまともに飯を食べていない。食べることも寝ることもできない。
おまけに最大の屈辱は海を奪われたことだ。
この部屋では小さな窓から海中が少し見えるだけで触れることができない。
おまけにそこを魚が横切るものだから空腹には辛い。
もしかしたら鬼は自分を餓死させようとしているのではないか。
そんな考えが何度横切ったかもしれない。
治りかけた傷が痒くて引っ掻く。
階段あたりから足音が聞こえた。
それに続いてひそひそと話す声。は身動きを止めた。少なくとも聞き覚えはないから、きっと鬼の部下だ。
あいつが部屋に来るだけでも嫌なのに、他にも来るなんて堪えがたい。
彼女は全身を掻きむしりたいような衝動に駆られた。
「起きろ!いつまでも寝てんじゃねぇ!」
上から目線の発言に苛々が最高潮だったのもあって、侵入者の二人を睨み付ける。
本当なら首を飛ばして、海に流してやりたいところだ。
だがあの凄惨な現場を見た二人にはそれで十分だったらしい。
が武器も持たず、寝台から外へ動けないことを忘れ、短く悲鳴を上げて凍りついた。
それを確認したは嘲るように鼻を鳴らし、視界から彼らを追い出す。
慌てた二人が上擦った声を上げた。
「ま、待てよ!アニキが呼んでんだよ!」
「西海の鬼が?」
自分から来ないなんて無礼にもほどがある。
いや、それよりも普段こっそり訪ねてくるくらいなら、用をそのときに話せばいいではないか。
それがの処遇であっても。
女だから引導を渡すことを言うのに気が引けたか。どうして陸の人間には腰抜けが多いのだろう。
舌打ちをしながらは鍵を取り出した男に足を差し出す。
ますます機嫌を悪くしながらも、足枷がはずされても何とか相手に手を出すのを我慢した。すり減った階段を踏みしめて、何週間ぶりかに外を見た。
陽光に目を細め、潮辛い空気を胸一杯に吸い込んだ。不規則に輝く海に心踊り、顔が綻ぶのを抑えられない。
偉大な海は一世を風靡した一人の海賊の死にあまりに無関心だった。
いや、別に自分が死ぬときは何か特別なことが起こるとかそんなこと考えたわけじゃない。
美しい、いつもの通りの海がいい。
甲板の中央に西海の鬼が仁王立ちで待っていた。じっとを見つめているようだが、逆光で表情は読めない。
肩に担いだ巨大な錨が海面のように反射する。あの錨でどのくらいの船なら止められるかしら。
促すように鎖がジャラジャラと音を立てた。
しかしそれに続かず、はただ海を見る。
さざめき、崩れ、同じ形を保つことのない海を。
生まれ、育ち、そして死ぬ海。
「殺すなら」
どうせ戒めとして見世物にされるなら、
この海にみっともない姿をさらすなら、
「手足縛って重石つけて海に沈めてよ」
「アネゴ!」
うるさい。一瞬たりとも黙ってられないのかこの屑どもは。
ぎろりと睨みを効かせるとすぐに黙ってしまう雑魚のくせに。
西海の鬼は仏のように慈悲深いというから―仏がどんなものかはしらないが―、このくらいの願いなら聞いてくれるだろう。
それともやはり戒めにしなければ気が済まないか。
すぅっと目を細めて鬼を見る。傍らには得物の錨槍。
あの錨はどのくらいの船を停留させられるか。
武器を肩に担いで歩きだした鬼を見て再び呑気にも思う。
鬼がの前に立つと、小柄な彼女は見上げなくてはならない。
眼帯の下はどうなっているのか。目玉だけないのか。傷があるのか否か。
向かい合う二人。周りの緊張も高まる。
だがしかし、先に口を開いた鬼の言葉は誰にとっても意外なものだった。
「オレと一緒に海を回らねぇか?」
は二、三度目を瞬かせ、疲れたのか頭を下げた。少なくとも礼や謝罪の意ではない。
鴎も鳴くのを止めてしまったようだ。ただ興味を持たないのは海だけ。
鬼の軍も血霞の軍も驚きのあまり言葉を失った。
「あたしは上に人がいるのは嫌い」
一呼吸おいてが言う。
明確な拒絶だった。
殺すなら殺せ。
次第に苛立ちが高まる。
なんでこうも陸のやつらはこうも話を長引かせるんだろう。
「別に下につけとは言ってねぇよ」
さらに周りがざわつく。
意味が分からないは、ただ眉間に皺を寄せる。
大きな波が船を揺らす。
崩した体勢を整えようと上を見る。目を刺す金属の反射。
ガキィン
甲高い金属音とともに、破片が肌を叩いた。残ったのは両手首にある二つの輪のみ。
文字通り目と鼻の先に突き刺さる碇を見、甲板に開いた穴を見る。
「あ、アニキ!何してんスか!」
「おめぇらは黙ってろ!」
この穴の下は船員以外の部屋だが、そのさらに下は食料庫がある。
そういえば船員たちが食料を積んだばかりだった。
無数にある樽には水や酒や塩漬けにした魚なんかが詰まっている。
あたしが死んだら奥に隠しておいた一等上等な酒は誰が飲むんだろう?
せっかくちびちび飲んできたのに、多分今夜あたしを殺した後の宴で全部飲まれる。
そこの西海の鬼だって、かなりの酒豪みたいだし。
塩漬けだって途中だし、今年のはいい出来だと思ってたのに。
「オレだけじゃこれだけでかい船団を率いる自信はねぇ。で、ものは相談だ。
お前には今まで通りにお前の船を率いてもらいてぇ」
「は?」
さすがにもぽかんとしてしまった。
ああ、こいつは頭がおかしいんだ。
大時化のときに海に落ちて、岩礁に頭を打ったに違いない。
あたしだって敵の頭を残したことなんてない。
再び辺りが騒がしくなり、困惑と動揺が広がる。波のせせらぎと違って心地好いものではない。
それをだるいような、しかし棘の含んだ視線で黙らせ、
「どうでもいいけど」
と言うと手錠から釘を抜き、手近にいた適当な男にぺいっと放り投げた。
残りの鉄片が甲高い音を立てて甲板を滑る。
それらを残らず拾い上げて同じようにぺいっと放り投げた。
ついでに床板の穴から下を覗く。
一度も行ったことがないから気付かなかったが、船員たちの部屋の汚いこと。
「ちゃんと床直してよ。
あとあんたらも部屋を掃除しな」
しかめっ面のまま不服を述べた。
「分かってるって」
には元親が笑う理由が分からない。
「これから頼むぜ」
には元親の言う意味が分からない。
跋
ようやく序章終了みたいな感じです。