「今頃になれば京の梅は満開でありましょう。
私の住んでいました近くなどでは梅の並木がありまして、それはそれは美しゅうございました」
「ほう」
梵天丸は目を丸くした。
奥州では未だ溶けきらない雪が積もっているというのに、京ではもう花の時期か。
こっそり出掛けて汚した俺の袴を文句も言わずは桶で洗っていた。
きっとことが露見しないように気も配ってくれるに違いない。 は女中だから仲良くしてはいけないと母上は言うが、自分と同じ年頃の子供がいない城内のことだ。
少しばかり年上でもはいい話相手になる。
そういえばこっちの梅はいつ咲くのだろう。顎に手を当てて思案していると、の咎めるような視線に気付いた。
「若様にあれこれ申し上げる気はありませんが、また御裏林で木登りなんてお遊びはお止めください」
「その口調をどうにかしたらな」
私を打ち首にでもなさるおつもりで?
呆れて眉間に皺を寄せたは桶から袴を引き出して水気を切った。あんなに汚れていたのによくもこんなに綺麗になるものだ。
泥の飛沫の染みは跡形もなく消え、まるで新しく仕立てたようだ。
しかしは気に入らないようで、何やらブツブツと呟いて、俺からは見えない汚れの部分を摘まむ。
自分では到底できないことに関心した。 だからできることなのか、女中連中はみんなできるのかいまいち分からないが。
諦めたのか袴を畳んで床に置き、手に息を吹きかけながら、すぐ隣に彼女は腰かけた。その手は真っ赤だ。
「痛いか?」
昔池の鯉に夢中になって、手を突っ込んでいたら霜焼けになった記憶がある。
この寒さの中洗濯していても同じことだろう。
そういえばあの時は母様が慌てて暖めてくれたが、の母親はどんな人だろうか。
父親ならたまにすれ違うときもあるが、母となると屋敷に篭っているのか。
母様のように昔は戦場を駆けったことがあるのだろうか。
「そんなことはありませんよ。慣れましたから」
そうは言ってもは頻りに手を擦り合わせていた。
悪いことをした、という後悔の念を今更ながら感じた。
頭が重く感じて自分の手を見下ろす。傷一つなく滑らかな自分の手に対し、荒れて乾燥したの手。
遊びで外に出ていたときくらいにしか、手の痛みなど感じたこともない。
しかもにとってはその痛みは慢性的なものだ。そんな一時のものとはわけが違う。
身分の差とは手にまで現れるものなのか。
「その手は・・・、治るのか?」
「しばらく水仕事を控えれば治ることもありますが・・・。そんなことは到底無理です」
「オレから女中頭に言ってくる」
勢い込んで立ち上がると、慌てたが止めてくる。
「い、いえいえ!このめは御仕事を頂いている身ですからそんな贅沢は言っていられません!
それに他の女中たちも同じように働いているのです。子供扱いされるのはまっぴらごめんでございます。
あと、ちゃんと手入れすればもう少し軽くなるものなのですよ? は面倒ですからそういうことはしないのですが」
こんな間近で接するのはくらいだから、それが本当か嘘なのか図りかねた。
ただ、仕事を控えることは心底嫌だということは分かった。
幼いころはこんな雑用のどこが大変なのだと思ったものだ。いや、そもそも気にも留めたことはなかった。
これが生まれの差だった。
身分の違いは別れを連れてくる。いくら赤羽家が重鎮と取り立てられていても、あまりに隔たりがあることくらい分かっていた。
鬢削ぎを終えたら嫁入りはすぐに決まるだろう。
そしたらいなくなる・・・?
なぜこんなことを考えるのだろう。オレらしくもない。
ぼぅっとする思考の中、自然との頬に手が伸びた。しかしその手は届くことなく、代わりに頭にあの手が乗った。
「さ、お風邪を召されますよ。喜多様もお探しでしょう」
「ああ」
重い腰を持ち上げて、できる限りしっかりとした足取りで歩もうと努めた。多分何も気付いていないだろう。
はまたあの袴を洗うのかもしれない。それからきっとこっそりあるべき場所に戻してくれる。
ちょうど曲がったところで暗闇に取り残された気がした。
今朝は朝から騒がしい。
嫌な予感がする。
胸中にあった得体の知れないものが、形をなしてきた。だがまだそれを掴みきれずにいる。
「ほらさっさと仕事しなさい!」
「いっ!?」
小気味いい音と同時に頭に軽い痛みが走った。
菊を恨み目がましく見つめると、雑巾を片手に携えた彼女は眦をつり上げた。
「いちいちぼーっとしてないで手を動かす!」
普段は自分もやらないくせに。
軽く唇をとがらせる。しかしすぐさま顔を下げた。
余計な場所まで分担されたらたまらない。
そのときふと閃くものがあった。
「あの、なんで若様の御部屋付近から外されたんですか?」
「知らないの?」
床の汚れを懸命にこすっていた一人が意外そうに言った。菊も驚いたように目を丸くしている。
「あたしも外されたんだけど、あれはやばいって。染されたらたまらないもの」
「染される?」
「ちょっとやめなさいよ」
「別にいいじゃない。みーんな知ってることよ」
今までの沈黙の反動か彼女はつらつらと並べ立て始めた。
女中とは元来噂好きなものだ。恐らくその話には多分に脚色が含まれている。
ただ、明らかに付け足されたと思われるものを差し引いてもの度肝を抜くのには十分だった。
聞き終えて止めていた手を再開させると、思いの外冷めた態度に話をした女中は期待外れとでも言いたそうな顔をした。
「ねぇ、泣いたりしないの?」
「なんで私を泣かせたいんですか?泣く必要なんてないでしょう」
「だってあんた泣いたとこなんていっぺんたりとも見たことないし、あんなに若様と仲良かったじゃない」
「仲なんて良くないですよ。若様がよくお声をかけてくださっただけです」
「そーは見えなかったけどねぇ」
それから誰も梵天丸について一言たりとも話さなかった。珍しく密やかに終わった廊下磨きは、多分今まででも一番綺麗だったと思う。
あの場は落ち着いて聞き流せたが、実際心中は荒れ狂っていた。
いつもの二倍にも三倍にも思える就業時間を終え、肌小袖のままこっそり部屋を抜け出した。
こんなはしたない格好で、こんなことがバレたらまた父上に折檻だ。
できる限り足音を消そうとしても、より床板の軋む音が大きくなる気がしてならない。
「若様」
いつもより空気が湿っているように感じる。
空が曇って、今にも雨が降り出しそうだからだろうか。
日も暮れかけ、あたりは闇に包まれ始めていた。それが物音のしない庭に気味悪さをかもしださせている。
遠慮がちに襖を開けると、中央に小さな人影が横たわっていた。右目には包帯が巻かれ、水疱ができて見るも無惨な姿だった。
誰かが来たあとなのか、灯りが点されていて、衰弱した少年をくっきりと浮かび上がらせていた。
まどろみの中にいるのか、入ってきたのに気付いた様子はなく、肌はうっすらと汗ばんでいる。
あの美しく賢い少年はどこにいったのか。
あの着物を洗った後に何があったのか。
「なんで、なんでこんな・・・!」
あまりの変わりように涙が滲み出て、はそっと荒れた手を握った。
軽く握り返された気もしたが、意識のない彼がそうできるのだろうか。
どうしてこんなことに。
この子が何をしたというのですか。観音様、この方の父親は信仰心も厚うございます。
幼い若様に信仰心を求めるなど、欲深い御心だとは思われないのですか。
しかしが今まで寺にも行かず、念仏も唱えなかったせいか、答えはなかった。
助けを求める相手も観音様であっているのかも定かではない。
外では天が低く唸る声。水の跳ねる音。
あまりにも心細い。
嵐が来る。
<あとがき>
ようやく奥州連載更新・・・!
結果としては分からない部分を色々削ることに。
書きたいこといっぱいあったのになぁ(泣